黒鴉派の奥座敷に、灯りは一つだけ。紅椿は文机の前に座し、動かぬ。だが座敷の隅、闇に紛れた者があることを、とうに承知していた。
「――随分と、無粋な訪いにございますこと」
紅椿は振り向かず、扇を開いた。闇の中の者が、微かに息を呑む気配。
「何用あって、忍び込まれたか。存じ上げたいものにござる」
答えの代わりに、低い呪言が響き始めた。何かを唱えている。紅椿の眉が、僅かにひそめられた。
「――口が過ぎまするな」
扇を持つ指先が、一度だけ強く握られる。その瞬間、座敷の空気が、目には見えぬ糸で編まれたかのように、ぴたりと張り詰めた。
闇の者の呪言が、喉の途中で止まった。声が出ぬ。息が、細く縛られていく。何が起きたのか本人にも分からぬまま、ただ喉の奥に、異物のような違和感だけが残る。
「呪を唱えるには、息が要り申す。その息、しばし――わたくしがお借りいたす」
紅椿は静かに立ち上がり、扇を閉じた。それだけで、闇の者は膝から崩れ落ちた。気を失ったか、あるいは。紅椿は確かめもせず、下人を呼ぶ鈴を鳴らした。
一人になった座敷で、紅椿はようやく自らの手を見た。指先が、微かに震えている。怒りのせいか、それとも――
「……浅ましき」
誰にともなく呟き、紅椿はその手を袖の内へと隠した。震えの理由を、深く考えぬようにして。
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